公益財団法人アタラクシア みやぎ霊園

ご使用家インタビュー

脳神経外科医として、仙台・宮城の医療の最前線でご活躍されてきた櫻井芳明さん。学生時代から現在まで、長く仙台で過ごしてきたことから、ご出身の栃木県にあったお墓をみやぎ霊園に移されました。改葬されたことで、折に触れてお墓に足を運ぶことができるようになりました。

お墓を大切にする心が
子や孫にも受け継がれています。

医師
櫻井芳明
Yoshiharu Sakurai

1940年、栃木県生まれ。東北大学大学院 医学研究科修了後、東北大学医学部附属病院長町分院(現在は本院に統合)に就職。1977年に国立仙台病院(現・仙台医療センター)第二脳神経外科医長に就任後、同院の院長・名誉院長などを歴任。現在も同院にて後進の育成に努める。また多年にわたり医療業務に貢献したとして、総務大臣表彰、日本医師会最高優功賞、瑞宝中綬章などを受ける。

櫻井先生のご出身は
栃木県とお伺いしています

僕の曾祖父が水戸藩医で、祖父や父母も栃木で医者をやっていました。父母は開業医でね、そこに終戦後に帰還した兵隊さんが診察に来て、ひどい栄養失調や脱水だったね。それに僕は5人兄弟の長男だったけれど、小さい頃に一緒に遊んでいた弟が事故で亡くなってしまった。そういう、人が亡くなる記憶がトラウマのように強烈に残っていてね。だから医学を学んだ時も、大学に残って教授になる道より、医者になって人を救う道を選んだんです。

東北大学に入学してそのまま仙台で就職しちゃったから、地元に帰って父母の病院を継ぐことはしなかったです。でも、盆暮れには帰省して必ずお墓参りに行っていましたよ。やっぱり生まれ育った環境に「死」が間近にあったから、お墓も大切にする心が育まれたんでしょうね。

昔は車を運転して仙台からお墓参りに行ったけれど、次第に大変になってしまって。地元にはお墓を守ってくれる人もいなくなってしまったから、それでお墓を仙台に持ってくることになったんです。

お墓を移される先として、
どのようにみやぎ霊園を選ばれましたか?

住んでいる場所の近くということで、みやぎ霊園をよく知る人に勧めてもらいました。ただ、お骨は陸奥国分寺に安置しているんです。僕の家の近所に陸奥国分寺のお坊さんが住んでいるから、その人にお願いしてね。だから菩提寺は陸奥国分寺で、みやぎ霊園のお墓は、ご先祖や亡くなった妻に手を合わせる場所にしました。お墓には2ヶ月に1回くらい行って、手を合わせたり手入れしたりしていますよ。栃木にお墓参りに行くことを考えたら、足を運ぶのはずいぶんと楽になりました。

現在のお墓を建てる時に
こだわったことはありますか?

お墓の区画は、高台のとても眺めが良い場所にしました。墓石は地震に強い横長のものにしてね。栃木のお寺にあった高僧が書いたという「和」の字をいただいて墓石に刻みました。

お墓を建ててから、敷地が2区画分で広いからサツキの木を植えたんです。一度は虫でやられてしまったけど、今も元気に花を咲かせますよ。ある年はどこからか種が飛んできて、矢車草の花畑になったこともあったね。自宅で育てたベゴニアを植木鉢に寄せて、お墓に飾ったりもしています。

お墓を非常に大事に思っているから、手入れも僕ができるだけのことをしています。加えてみやぎ霊園さんでは管理者がいて周辺をきれいにしてくれますから、僕の管理も楽になりますね。

西16区から望む眺望

普段からお墓参りが身近なのですね
お一人で行くことが多いですか?

今は近所に住んでいる息子夫婦や孫と行くことも多いです。息子も信心深く育ったし、孫までその精神が受け継がれているようだね。お墓にはベンチもあるから、外国のお墓みたいに、ピクニックのように行ってゆっくり過ごしています。

こんなふうに子どもや孫がお墓を大切にするようになったのは、母さん(妻)のおかげじゃないかな。家庭の切り盛りも子どもの教育も、家をきれいにするのもしっかりやっていたから。

ご家族はもちろん、
奥様をとても大切に思っていらしたのですね

僕は国内外のあちこちで仕事して忙しくしていたから、母さんには何となく頭が上がらない思いがあるんです(笑)。
亡くなったのはもう10年以上も前ですけどね。亡くなる最後の年、一緒に2週間のイタリア旅行に行ってね、母さんが好きなオペラを鑑賞したんです。お墓に行くと、その時のことを思い出したりしてね。だからまだ、未練が残っているんでしょうね。それもあって、お墓のことには一生懸命なのかもしれません。

取材・撮影日:2024年11月